HISTORY OF SUMA AND SONGS

  



世の喧騒を忘れ須磨の海をながめれば、潮騒に包まれたあなたも、きっと心をリフレッシュできます。

シーパル須磨(海岸中央部)
左上部は須磨離宮公園

赤燈台は、明治4年4月和田岬に木製灯台として建てられる。
明治17年3月に鉄骨造りの灯台として建てられる。
昭和38年この地に移築保存。
本州では現存中最古の鉄骨製洋式灯台。
屋上庭園より、南西方面
手前は須磨海水浴場、須磨海浜公園
真中には須磨海づり公園
明石海峡大橋を望む
夜にはライトアップされる


当館は正式名称を「神戸市立国民宿舎須磨荘」といい、全国で54番目の国民宿舎として昭和37年11月に開設されました。もとの建物は現在より東へ300メートルほどのところに位置し、4階建ての東西に長い建物でしたが、平成7年1月の阪神・淡路大震災により西側の一部が半壊するなどの大きな被害を受けました。

現在の建物はちょうど基礎工事の途上でしたが、翌平成8年7月、無事に完成オープンすることができました。
「シーパル(Sea Pal=海の仲間たち)須磨」の愛称も、この改築オープンの際、一般公募により付けられたものです。

  当館の位置する「須磨」の地は古来より白砂青松の景勝で知られ、山側のなだらかな斜面に広がる市街地には、源氏物語などにも登場する古い歴史を今に伝える地名や石碑などをそこかしこに見ることができます。海を隔てて淡路島や紀伊半島を遠望することのできる海岸は、大阪湾でも唯一海水浴を楽しめる自然の砂浜として保全されており、夏ともなると100万人を超える海水浴客で賑わいます。 ところが、かつての須磨はさみしい場所の代名詞のように思われていたようです。畿内の西の端という立地や源平合戦での平家一門の悲劇の舞台という歴史がこの背景にあるようで、須磨界隈で多くの句を詠んだかの松尾芭蕉も、日本海沿いのあるまちでは"さみしさや 須磨にかちたる 浜の秋"という句を残しているほどです。江戸時代頃まで、「須磨界隈のさみしさ」は余程広く知られていたのでしょう。

明治の時代になり、神戸が世界に向けて開港し文明開化のさきがけとして発展するにつれ、静かな田畑が広がっていた須磨も急激に変貌をとげてきました。風光明媚で温暖なこの地は関西在住の華族や財界人をはじめ、外国人にも好まれ、修景の優れた山すそから海浜にかけて次々に大きなお屋敷や異人館風の館が立ち並びました。明治42年には、須磨地区の総戸数1,872のうち、別荘が350余、との記録が残されています。
こうした邸宅・別荘ブームの中で、一際目立ったのが大阪住友家の別邸でした。当初は和風の建物だったようですが、明治36年には野口孫市の設計監督による、いわゆるコロニアル様式を取り入れた洋館が新築されました。当主の春翠はこの別邸で家族ともども洋風の生活様式を日常的に取り入れ、しばしば国内外の紳士淑女を招いたパーティーも開かれたようです。春翠はまた、美術への関心も深く、大原孫三郎や松方幸次郎などと共に日本の洋画発展のために貢献したことでも有名です。黒田清輝、岡田三郎助、アンリーマルタン、クロードモネなどの作品を別邸に飾り、これらを折につけ美術展に出展するなど、美術愛好家はもとより多くの画家を啓発したともいわれています。残念ながらこの絵画の多くは別邸とともに戦災で焼失してしまいました。かろうじて戦禍を逃れたそのほかの別荘なども、都市化の進展や先の大震災により、ほとんどが姿を消してしまいました。しかしながら、須磨離宮公園をはじめ、残された邸宅や古い石垣などは、「別荘文化」が花を咲かせたかつての須磨の街並みの風情を今に伝えています。
住友別邸の敷地は、後に神戸市が寄贈を受け、須磨海浜公園として整備されて今日に至っています。 現在のシーパル須磨は、この住友別邸敷地の西北の一角に位置しており、一風変わったデザインの門柱も、もとの住友別邸の門柱を再現したものです。本物の石造門柱は、住友別邸の唯一の名残として、当館から100メートルほど東の国道沿いに佇んでいます。

当館から東へ歩いて1~2分の松林の中に「皇太子殿下御手栽之松」の碑があります。
大正8年、旧陸軍の特別大演習が武庫離宮(今の須磨離宮公園)を大本営として行われ、当時19歳の皇太子(後の昭和天皇)も統監部武官として台臨されました。このとき、この住友別邸を御宿泊所とされ、記念に松を植えられています。当時は大人の背丈ほどだったそうですが、今では、見事な枝ぶりの松に育っています。